一秒前、顔の横数センチの漆喰の壁に仁王の素手がめりこんだ。 まばたきに入るよりも速く、それはいっそ芸術的で、左の拳がきれいに衝撃と共に壁に吸い込まれてから、わたしはゆっくりと瞼を下ろし、そしてゆっくりと両の目を開けて、一秒後のはるかに違う恐れる世界と対峙した。音もなく、顔の横から手が離れ、続いてぱらり、ぱらり、と漆喰の壁が小さく円状に崩れる。粉末と破片が髪をたどって右肩からつたい、床を汚す。わたしの部屋の床で、わたしの部屋の完璧だった白い漆喰の壁だ。

痛憤を飲み込んで、深く噛んだ唇から言葉が落ちる余地も探し出せない、そんな空気の中、真正面から仁王を眺めた。ぼやけた細い輪郭、夕闇が濃く、もうすぐ灯りをつけなくてはいけない。想像する。部屋の反対側、仁王の前を横切って灯りのスイッチをおす自分、なんとも難しい映像。影になった仁王の左手は斑に見え、薄い胸は、呼吸をわずかにくり返していた、いや、意識的に小さくしているようだった。激高する様を恥じる品は疑いなく持ちあわせている人だけれど、やや表情のない顔は造作にかまわず、いつものように甘くはなかった。恋人、口の中で呟いてみる、わたしと仁王、今がその二文字に似合う光景かどうかは疑わしい、恋人........素足でたたずむ眼下の床に、ちりちりとつもりゆく哀れな漆喰の欠片が、口中の言葉を裏切っている。浅く呼吸を一回、まばたきと同時にもう一回、仁王はゆっくりと夕闇に溶ける。意識を遠くに集中させて、冷静になろうと努める。怒りの粒子、それらが部屋中に、ふうわりと漂うのが見えた。

仁王を知るわたし以外の人物は、いっそここに立ちあえれば喜ぶかもしれない、寧ろ、僥倖だと。仁王に好意をもてない輩なら微笑みすら浮かべ、かわりに暮れ行く部屋のスイッチをつけて、明るい蛍光灯の下、まじまじと興味深げに仁王を眺めたがるかもしれない。まさか感情に遊ばれる彼なんて、でもこの瞬間こそ心しなければ_____ここで冷静さに幾分か悲しみが_____なぜなら立派な嘘でも、洒脱な変装でもなく、めったに見せない“脆さ”こそが彼の切り札だと、うすうすわたしは気づいている。心乱され、優しくしようと手をのばせば、最後の最後に無防備な指先を噛まれるのはこちらだ。感傷的な愛おしさと嫌悪が胸中で混ざりあわず、窒息しそうになる。この期におよんで、まだわたしは仁王を疑っている、部屋の一部分をえぐりとられて、なおー


「言ってなかったけど」

「なんじゃ........?」

「それほど嫌いじゃなかったんだよ、この壁」

「知っとる」


粗暴な行為の理由なんて、ここに記述しなければ意味深に思え、書いてしまえばくだらなく感じられる類いのモノだった。色恋沙汰が及ぶすべての煩わしさが曰くそうで、いっそのこと逃げられるのなら、楽だろう。けれど、仁王の銀色にゆれる毛先は、今、確かにわたしの手が触れられる距離にあって、あえて血気をおさえる素振りは手負いの獣のようだった。手懐けるのも、飛び込んで食われるのもわたしだ。おろおろとうろたえてみるのも一興かもしれない、子供みたいに、できるだけ戸惑って、許しをこおうか?けれど、なんて侮辱だろう、その打算こそがもっとも仁王が今必要としないモノのように思われた。悪い癖、すでに燃えあがった火に油を注いで、もっと綺麗な火花を見てみたくなる、愚かだ。それでもわたしは何かアクションを起こさなくてはいけない。粒子がはじけてこの部屋の酸素がすべて無くなる前に、仁王と二人で最後の一息の空気を奪いあわずにすむように、ひゅぅ......と喉が鳴る、カラカラだ、何か飲みたい。

鍵を拾い、カードが入っている事だけを確認して財布を掴む。


「出てく」

「お前さんの部屋じゃ」

「好きにして」


12月にふさわしい木枯らしが扉を開けた瞬間に吹き、頬を凍てつかせる。コートをよせあわせ、肌を隠した。ふぅ、と吐いた息が白く後方へと流れる中を、ざくざくと足早に市街へと向かって歩く。木々は艶をなくし、地面へと頭をたれ、冷たい外壁が道の終わりまで連なっている。石灰をちりばめた曇り空が頭上にひろがり、まるで冬という一枚の絵の中を歩いているようだった。この無彩色の風景画が否応無く、先程部屋においてきぼりにした人物の風情を思い起こさせる。
仁、王....かじかむ唇では、そのめずらしい発音の名はくぐもり、きれいには唱えられなかった。心中のいたたまれなさを、それでも凍てつく寒さが結晶化し、暗い空へとゆっくり発散させる。帰宅をいそぐ通行人の顔がだんだんとはっきり表れ、彼らがついた嘆息も白く、後方へと流れて消えた。わたしは膝に力を入れた。


真鍮のドアノブをつかんで、古い感触を確かめるように開けた。すぐに、ふんわりと香ばしいコーヒーの匂いが鼻腔を漂い「さん.....?お久しぶりですね」と、カウンターにいた青年がゆっくりと顔を上げた。わたしはひかえめに微笑み、それに対して青年も眼鏡越しに慣れた笑みを返した。コートを脱いで空いたソファーに置き、特定の品名を告げると、青年は頷き、奥の調理場へと姿を消した。辺りを見回す、自分の好む場所に身をおくと、幾分わたしはホッとした。店内は暖かく、しんみりと適度に静かで客の入りは少なかった。わたしの気に入りのカフェだ。


「何か召し上がられますかー?」

「いえ、大丈夫です」


調理場の奥からの声を断る。食物の事は考えられなかった、何か固形物が喉を通り、行儀よく胃に収まってくれる気配もない。かろうじてこれから出てくるであろう熱い飲み物が、寒さにこわばった神経と体を生き返らせてくれるよう願った。ソファに身を沈め、大きなウィンドウから冬の12月の街を眺めた。暖かいカフェの室内から眺める安全な初冬の景色は好ましいものだった。ガラスに写るおぼろげな顔、体、足........通りすぎる着膨れた人々が誰もどこか見覚えがあって、そして誰も知らない人のように思えた。この人々といつ知り合っても、そして別れあっても不思議ではない既視感に、ぼんやりとわたしは包まれた。眠りにも似た優しい疲れが体に降りる。ふと、なぜ仁王とあのような修羅場を演じなければいけないのか、わからなくなった。今、眼前を歩く人々から続く一億数千万もの人々の中から、その他をフって、恋しあって、ようやく他人同士である事をやめたのに。右を見て、さらに左を見ても、そのような出会いは運命、奇跡だなんていう表現ばかりだ、では、出会ってしまった後の........その後の長い道程はどのような言葉で言い表せばいいのだろう。一瞬の出会い、永遠なる後刻、怖い。継続的な幸せや奇跡がいつでも買える代物なら、良かった。そうしたら仕事帰りにでも立ち寄って、気軽にひとつ持ち帰れるのに。


「お待たせしました」


たっぷりとしたカフェ・ラテがテーブルの上に置かれた。思考をしばし止め、ふちまでなみなみと注がれたクリームの泡を見る。立ち去ろうとした青年が、ふいに目をとめた。

「おや......?」

不思議そうにわたしの右肩を差し、言う。

「ゆうき」

「ゆ......?」

やや間延びした言い方だったので、よく聞き取れなかった。
有機?勇気?ゆう........?何の事だろう、と身をのりだしたわたしに、青年は「降っていたんですね」とにっこり笑った。


「雪ですよ」


ふっ、と自分の右肩を見れば、白い結晶がちらばっていた。非常に細かい粒が、点、点、点、と連なり、鮮やかに飛び散っている。


漆喰の欠片だった。


「いえ、これは....」


わたしの否定を待たずに、店員の青年は「気づかなかったな」と背を向け、淡々とカウンターの奥へと戻って行った。数秒の間の後、続けようと思った言葉を押しとどめて、そのままわたしはあっけなくソファーに背をあずけた。もう一度、肩の結晶もどきを見る。

雪、か。

ラテに手をのばして、一口甘いクリームを飲み込んだ。

雪、ね。


やわらかい熱さを嚥下すると、やおら唇が上がった。ゆっくりとラテの暖かさが体に溶けるにしたがって、じわじわと可笑しさがこみ上げて来た。わたしはコップを持つ手の端で、小さく笑ってしまった。.......まさか、雪だなんて。仁王がぶち破りかけたわたしの部屋の壁の、ただの飛沫だ。それが髪や肩にからみついていただけで、あの空から降ってくる純潔な雪だなんて。なんて滑稽で、ロマンチックな勘違いだろう。ひとしきり笑い、ようやく衝動がおさまると、わたしは肩についた漆喰の欠片を手ではらった。なんなく落ちた欠片は、やはり雪の姿をそっくり真似ながら、さらさらと宙に消えた。これが漆喰であろうと、本物の雪であろうと何の差異もないように思われた。なんの問題も、ない......その一瞬の幸福なイメージは、わたしの心の暗い靄を脱がし、すべての仁王の振る舞い、わたしと仁王の関係、そして、これからの二人の前途を楽観視させた。嘘も真も、こちらの心一つだ。半分に減ったカップの表面を、くるりとクリームの泡が泳いでいる。ウィンドウを眺めれば、霜がびっしりとはりつめ、今にも本当に雪が降りそうな気配を漂わせていた。容赦のない厳寒期の到来だ。わたしは心配になる、仁王は寒いのが嫌いだ、それにもまして暑いのが嫌いだ、とかく好きなモノよりも嫌いなモノの方が多い人だ。そんな気紛れなどこへ行くとも知れない猫のような人が、今はわたしの部屋にいる、ぽつん、と一人で。


「すみません」

「はい」

「ラテもう一杯お願いします」

「はい、すぐにこちらにお持ち致しますね」

「あ、いえ」



「テイクアウトで」


帰り道の足取りは、いくらか軽快で、こぼれないように持った熱いラテの温度が、紙袋一枚を通してわたしの手を温めた。頭上には艶を取り戻した木々が生い茂り、優しく、優しく、帰路を彩った。



つん、とペンキの匂いが部屋に入った瞬間、鼻をくすぐった。仁王は背をこちらに向けて、適当にしかれた紙片の上に立っていた。右手だけがゆるやかに動いている。靴を脱ぎ、ゆっくりと近づいて、紙袋からラテを取り出した。そっ、と横に置くと、仁王は一瞬だけ手を止め、またすぐにのんびりと作業を再開した。ほんの少し、微笑ましげに口角が上がっている。わたしは隣に腰掛け、その様子を見守った。わたしの部屋の壁は、水のような澄み切った青色に塗られていた。穴は、ない。.........溜息をつく、どうやって修復したのか、どのようなペテンを使ったのか、さっぱり見当がつかない。唯一見覚えがあるのは、だらり、と下げられた仁王の左手の斑だけだった。密やかにその左手に、わたしは触れた。


「......言ってなかったけど」

「なんじゃ?」

「それほど嫌いじゃないよ、青って」


仁王は、薄く笑う。


「それも......知っとる」





「雪、だってさ.」

わかっているのかいないのか、塗りながら仁王は「ん」と、頷いた。冷たい手が、強弱をつけて、ゆるくわたしの指に悪戯をする。手を繋ぎあったまま、わたしは眼前にひろがる青の情景を見つめた。一筆、一筆、仁王の手によって色が塗り重ねられる度に、ちがう種類の顔を魅せる、青、碧、蒼.....見上げれば、銀に光る毛先がその情景にうっすら溶け、まるで雪が降った後の、春先の雪解け水のような透明な世界に仁王がいる。美しいな、とわたしは目を瞬かせた。わたし達が住むべき、愛おしい世界だった。









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