柳の手は美しい。

すらりとのびた長い腕から折れる手の甲が、おもむろに窓や壁などに触れ、しなやかな指が前髪をすくう、鉛筆を握りしめる一瞬、浮かび上がる薄い血管の筋に「ほう」と溜息が知らぬ間、自分の口から出ていた。教室には明るすぎる日射しが入り込み、柳が手を伸ばしカーテンをひくと余分な光を遮断された教室内は、ふかく深海に入ったような雰囲気に包まれた。それが柳のせいなのか、それともその美しい手がなす技なのか、私にはわからない。そのどちらでも、私にはいいのかもしれない。

けれど、無粋な鐘の音がまばたきする間に、この優しい海の底を壊す。ドアが教室外から開かれ、柳の方へとかけてくる姿を認めて、私は窓の方へ視線を逸らした。寄り添う2人の影が私の机に落ち、なぞるように彼女が柳の手に触れる。鞄をかかえ、教室から出る瞬間まで、私は俯いたままその感触を想像していた。されるがままの柳でもなく、彼に全てを許された彼女でもなく、そしてこの変わらない関係性にでもなく、私はただ、その想像する事しかできない“感触”に嫉妬した。


               
早咲きの桜が、ひらひらといたずらに額に落ちる季節、私は柳に想いを告げた。2人だけの教室、黒板は卒業前の心境を明るく、そして少しの名残を残して書かれたメッセージで埋め尽くされていた。その日の朝、チョークを握りしめ級友にまぎれて何か書こうとした私は、まだやり残した事に気づいて、粉だらけの手でチョークを元に戻した。



「そうだったのか...........」



静かに私を見つめる瞳にコクン、と頷くとその瞳が優しさと申し訳なさで細められた。やはり気を使わせてしまった、という後悔で俯いてしまったけれど「知られていなかった」という、せめてものプライドへの安堵で、私は胸を撫で下ろし、顔を上げて見つめる瞳に答えた。


               
は...........俺にどうして欲しい?」



予想していなかった言葉に心が騒いだ。卒業前の感傷か、はたまた哀れみからの猶予か、柳は合理的な彼らしくない事を私に問いかけてくれた。今まで一度も与えられた事のない機会、目の前に確かに立つこの人。
    
願ってもないー
               
けれども、これは死刑囚にだけ許された情けによる最後の一服の煙草のような甘い残酷さを秘めていた。それなら............それならば、這いつくばった囚人は精一杯の欲を出すだけだ。



「触って」

「その手で、私に触って」



どうとでもとれるようなか細い声で言った私を、柳は一瞬驚いた目で見つめた。けれど、その瞳にすぐ理性的な光が戻るのを認めるのと同時に、白い影が私の顔をよぎった。ひんやりとした手が触れて、長い指がそっと顎をつかみ、すーーとなだらかな頬を撫でられる。静かに、静かに、優しすぎるぐらい私の肌を粟立てず、余計な刺激を、思惑を、不純さを覚えさせないように淡々と皮膚の上をすべる感触。勝手に熱を持とうとする肌を、その指がなぞるたびに消してゆく。

想像していたどの感触とも違っていて、だからこそひどく重いその柔らかさに私は目をつぶり、目頭の疼くような、押し寄せてくる感覚にただ耐えた。けれどその指が薄いまぶたの上の白い皮膚に触れ、そっと押した時、すべてが決壊するように嗚咽が小さく私の口から漏れた。なまぬるさが頬をつたい、切れ切れとした睫毛の間からかろうじて覗ける柳の姿が、みるみるぼやけた。なんとか目を開き、今しか自分のものではないその姿をちゃんと見ようと顔を上げた時、強い力で首を引き寄せられた。


近づいてくる黒い瞳に心臓がドックン、と一回大きく波打った後、全ては静かになった。


日の落ちた教室は、あの日の深海のような深さに包まれ、寄せあった唇に絡まった髪の毛がまとわりつき、頬を流れた涙のせいで、柳の唇は塩辛く、目眩のように甘かった。なぜ人は、人生の最上の瞬間に“時が止まればいい”と思うのだろう?願わくば、今この触れあった瞬間ではなく、あの黒い瞳が落ちる寸前、私の期待と不安が最高潮に達した瞬間に、時が止まればいい。柳のこの唇の...........決して私のものではない甘さを知ってしまった瞬間が永遠に続くなんて、あまりにもつらすぎる。


嗚咽を止められずに涙がつたう瞳を、柳の手が覆った。指の隙間から見える柳の姿がだんだんと狭まり、やがて消えてゆく。最後にその目が全てを忘れろ、というように一回だけ瞬きして、唇が離れた。


そして

私一人だけ、海の暗闇に包まれた。






        
あれからどれぐらいの月日が経ったのだろう。
私はもうとっくに毎日決められた服を着る義務から開放され、自分で見つけた気に入りの店に入り、自分が汗を流して得た対価で、すべてではないにしろ、欲しい物、恋い焦がれた物を手に入れている。昔は想像すらしていなかった日々。


けれど、それでも、ふとした街角で、雨の日の人ごみの中で、冬の朝の肌寒い散歩道で、それがたとえ夕食用にキッチンの冷蔵庫を開けた瞬間であっても、あの唇の感触を思い出した途端に私はいつでもどこでも泣いてしまう。冷たい床に座り込み、頬につたう涙を必死に払いのけ、決して唇に落ちないように手で顔を覆う。あの日の唇に混ざった塩辛さすら思い出してしまっては、私は永遠にあの深い海の底から戻れなくなってしまう。

やなぎ、やなぎ、と心で小さく唱えてみる。
その響きがもたらす懐かしい甘さに、私は教室の黒板に書くべきだった言葉を、今ようやく思いつく。


ありがとう、ありがとう、そして さようなら。

あなたは私の初恋でもなく、私がただ好きだった人でもなく、そして私の得られなかった恋でもない。

あなたは私の15才そのものでした。




キッチンの床に落ちた涙が、木目に染み込んでいる。それを拭い、こうこうと光を放つ開かれたままの冷蔵庫を閉める為に、そしてこれからの生きてゆく長い人生の全てを「なにもかもがあなたではない」と思わない為に



              
私は立ち上がった。









090922