ぎぃ、ぎぃ、と私が体重を片方かけている椅子の足がきしんでいる。その少し耳障りな音が
静かな教室にひびいて、窓から射し込むやわらかな夕日とは、対照的だ。


                  
ああ、もう放課後なんだな。

 
                 
女性がそんな格好ではしたないー



後ろ前に座り、投げ出された自分の白い足をながめながら、キッパリと切り捨てるあの眼鏡の人の声が、聞こえるような気がした。 けれど、今私の眼前にて日誌を書いている人物はそんな事を気にもせず、長い体躯を姿勢良くのばし、優雅に椅子に座っている。 額にかかる前髪がさらさらと揺れて、光で時々飴色にそまる。背もたれに手をかけ、ゆらゆらと揺れながら、美しい文字が流れる手元をのぞきこむ私の視線に気づいて、その人物がちらり、とこちらに一瞥をくれた。


「気をつけろ、。転ぶぞ」

                  
やんわりと言われて、私は椅子に体重をかけるのをやめる。 素直にしたがった私をみて、その人物は目を細めてフッ.....と笑い、日誌に視線を戻した。切り捨てるあの人とは違い、彼はいつでも優しく私の悪戯をなだめ、その余裕をもって私を大人しくさせる。私が死ぬほど柳生が好きだから、彼が私に全然興味がないことがわかるように、柳も私を好きだから、私を甘えさせる事が上手なのだろうか?とふと思う。


とても不思議なことに、最初に柳と目があった時「あ、この人私の事好きだ」と瞬間的に思えた。 その傲慢な思いは勘違いに変わる事はなく、会話を交わす度に確信に変わっていった。
5月の終わり頃、誰もいない教室でそっと頬に触れられた時、私は驚かなかった。

けれど、私には叶わない恋から逃げる場所が必要で、彼にはそれを早々と見抜く鋭さがあった。
危うい一本の糸の上を、綱渡りするようなギリギリの所で踏みとどまっている友情。 前進もしなければ後退もしないぬるま湯のような心地いい関係を、私たち2人とも壊したくはなかった。


少なくとも2人ともそのはずだった。




「すまないな、日直当番に付き合わせて」

「いや全然いいよ、黒板消し楽だったし」

「眠そうだな、それに目が少し赤いぞ?」

「ハハハ、昨日あんま寝てなくて」


                  
柳生の好成績に負けじと徹夜で勉強したものの、感心されるほどの成績はとれなかった
小テストを思い出して、しばし情けなくなる。

                  
「眠いなら寝ていてもいいぞ、もう少しかかるからな」

「はーい」


うつ伏せに顔をひんやりとした机にひっつけると、色々な音が木の感触を通して聴こえた。窓の外からの風、校庭からのかけ声、そして隣の柳の手元から発せられる規則的なえんぴつの音が、耳にとても心地いい。その音を子守唄がわりに私はうとうとと、まどろみの中に落ちていった。

夢の中の私は、その音を頼りに、どこかへ歩いて行こうとしていた。




さらさらさらさらさらさら..................

さらさらさら............

さらさら........

さら......




その心地いい音が途切れるのに気づいた時には、すでに私の頬にはひんやりとした手が添えられており、それが途切れた音の代わりのように優しく私の頬を撫でていた。恥ずかしさと目を開けなくては、という思いで起き上がろうとしたけれど、私の頬を撫でる仕草が、まるで壊れやすい陶器を扱うように繊細だったので、そのように扱われた事の無い私は緊張して体が動けなくなる。ああ........この人はなんでいつもあの人が与えてくれないものを、こうも容易く与えてくれるのだろう。薄いまどろみでぼやけた頭でも「この手があの人であれば」という考えにいたれないほど、柳の手つきは彼らしく、優しかった。

そのままほどなくして、ゆっくりと顔に影が落ちる気配を察する。 あ、やばい、今ここで目を開けなくては............、衝動的に手遅れになる、そう思い夢から覚めるように起き上がろうとした瞬間、最後の夢の断片が、私をつかまえる。



ゆらゆらと揺れる一本の糸の上を、おぼつかない足取りで歩く私。聞こえるのは、どこからかさらさらとした規則的な音と、背にそっと添えられたひんやりとした手。



とんっ



優しくその手が私の背中を押した。
真っ逆さまに落ちる感覚と、唇に何かが触れる感覚を同時に感じた。







ガラッ!!

「なんだ、まだ教室にいたのですか?柳くん」

「...........ああ、日誌に記入する事が多くてな」

「それは良いんですが真田くんが遅いとしびれを切らしていましたよ」

「そうか、それはすまなかったな、すぐ行くと伝えてくれ」

「そうして下さい..........ってさんもご一緒でしたか」



突然入って来た張りのある声に、私はそろそろと今起きたばかりという風に顔を上げた。
教室の中は静けさに包まれ、何事も無かったかのように柳と柳生が談笑している。



、もういいからお前は先に帰って休んだ方がいい」

「え?あっ..........」

「柳生、を玄関まで送ってくれないか?」

「ええ..........いいですけれど」



そういって柳は席を立ち、部活へ行く準備をし始めた。その手には先ほどの夢の痕はなく、心地のいい音を演出していた鉛筆は、今はもう固く筆記用具入れにしまわれ、その他の教科書と一緒にリュックに入れられていた。


                  
「今日はつきあってくれて感謝する、

「..........うん」


                 
形式的に付き添われながら、柳生と教室を出る間際、先ほどの私の頬を撫でたのと全く同じ動作で、柳が自分の顔にかかった髪をはらった。それをハッとして見つめる私に気づいて、柳は笑った..........少し仕方無さそうに、どうしようもなかったかのように。

その笑顔に答える前に、柳生がビシャンッと教室の扉をしめた。


                  


肩が触れない程度に距離をたもちつつ、言葉少なに歩くとなりの人 。そのえり足の栗色を愛おしいと思う気持ちと、この数センチが永遠に埋まらないような距離感。先ほどのこのうえなく優しい柳の感触が、まだ頬にも唇にも残っている。


いつか、私は本当にあの糸の上から飛び降りるだろう。
背中を押す柳の流れるような動作によって。
そのひんやりとした、細く、やわらかな手ー


     
そこまで考えて私は廊下の真ん中で立ち止まった。

 
                 
「どうしたんですか?」


訝しげに聞く柳生に「..........ううん、なんでもないよ」と答えて歩き出す。
先ほどの夢の中で私の背を押した手。
あれは、あれは、あの見慣れた手は。


柳生と並んで歩きながら、私はこっそりと肩から伸びる自分の細い腕をながめて
隣の好きな人に気取られないように息を殺した。

















090817