ふーん、て思った。

透明な西日がさす図書室、ほっそりとした暗野さんの指が、今しがた柳くんが棚にもどした本の装丁をゆっくりと撫でた。まるでそれが世界で一番大切な物であるかのように、いつもは血色の悪い暗野さんの頬にあわく紅がさし、大事そうにその本を胸に抱えて、彼女はさっていった。図書室の一角をのぞける向かいの無人の教室、退屈まぎれにかくれ、ふう、と吐いた煙のはざまから、あたしはそれをみた。

ふーん...............







教室は戦場だ。
たった15才の女の子ですら、それはわかる。いや、たった15才であるからこそ、その四角形の箱の中にうずまく、嫉妬、羨望、嫌悪、そしてその他のあらゆる“感情”という鋭い弾丸をそしらぬ顔でかわさなくてはならない。この年齢の女の子たちはとってもイジワルだ。あっけなく撃たれ、その場に膝をつけば、自分を見下ろすその子たちの視線が、一瞬で“弱者”へのそれと変わる。ヒュー、パンッ!ガクリ..........それでおわり。社会人の姉にいわせれば、社会に出てからこそが戦場で、その前身である学生生活などは気楽なブートキャンプ(新兵訓練)のようなものだと。姉にはわからない、もうこの教室の住人ではない、15才の女の子ではない彼女には。だって姉はもう、とうに煩わしく重たい制服を脱ぎ捨てた。

あたしはこのバカバカしい戦争に負けるつもりはない。今日も制服という戦闘服にまだ成熟しきれない体を通して、ヒエラルキーの最上から、あたしは撃つべき獲物をねらう。撃たれる前にすべてを撃てば負けることはない。「攻撃は最大の防御」 いい言葉だとおもう、ゆるぎない真理だ。





ービューラーもってる?あたし忘れてきちゃった」

「ハイ」

「ありがとー」

「いいよ」

「ねー、暗野さんの新しい髪型みた?」

「ああ、アレ?」

「ひっどかったよねー?」

「似合ってなかったね」

「なにアイツ?笑いとりに来たの?」

「ていうか、その前に暗野さんの笑ったトコみたことない」

「だよねー、いっつも俯いて本ばっか読んでるし」

「なんかねー」

、言ってあげなよ「暗野さんきもいですよー」って」

「あたし?やだよ」

「マジ話しかけるのもきっついよねー」

「ありえないね」

「あっ!そのグロスかわいいーどこのー?」

「これ?これはね.............. 」





白いカーテン越しの光が、背筋をのばし起立した柳くんの白皙をてらす。朗々と、古典作品の一小節をそらんじる低い声に、教室内はやわらかい沈黙につつまれた。「............風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず」そこで区切ると、教師の「続きを」という嘆願にもきこえる指示に、柳くんは一呼吸をおくと、また静かに続きを読みはじめる。絹のような声だ。
くるくると手持ち無沙汰にシャーペンを手の中で弄びながら、なんとはなしに柳くんの後ろ姿をながめていたあたしは、もうひとつの熱を含んだ視線を感じた。ゆっくりと意識すれば、予想どおり背中を丸めた暗野さんが本の影から、うっとりとした表情で柳くんをみつめていた。頬杖をついた手は少し恥ずかしそうに切りすぎた髪の毛をかくしている。まるで聖者をみるような眼差しになんだか面映い心地になる、瞬間.....手の中でシャーペンがすべった。おおきく弧を描き、思いがけない音をたてて、カツンッと教室内に耳障りな落下音がひびく。


ー」

「すみませーん」


朗読を妨げられた柳くんは、ゆっくりと次のページを繰り、さらなるパフォーマンスが必要かどうか教師に視線で問いかけた。少し残念そうな面持ちで国語教師は手でそれを制する。緩慢な中年教師の声が続きの一小節を最後まで引き継いた、くらべものにならない退屈な声。
「しまったなー」と思いながら、カチカチと折れた芯をなおしていると、後頭部にはりつく視線を感じた。みれば、じとっとした目つきで暗野さんがあたしをみていた、短い睫毛の間から責めるような険のある視線があたしを射す。みかえすと、ふいっと知らぬ顔で目をそらされた。




ふーん..............

今度はうっすらと苛立ちながら、そうおもう。
胸の中で、何か棘にも似たものがチクリ、とめばえる。
中で折れてしまったのか、何度押してもシャーペンの芯は綺麗なまま出てはくれなかった。






観察していて、わかったことがある。
どうやら暗野さんは、柳くんが借りた本をその次に借りる事を、日課としているようだ。彼が図書館に戻した本はことごとく暗野さんが次に借りている。図書カードの「柳」の下にならぶ「暗野」の二文字。
あたしは柳くんについて何もしらない。同じクラスで、テニス部で、それから..........たぶんそれだけだ。でも暗野さんは彼の軌跡を一種変質的な方法で追いかけるぐらい、彼に魅力を感じているらしい...........恋をしている、暗野さんが?うっすら、と生理的な嫌悪感がつのる。中庭をながめれば、木々の木漏れ日の下で柳くんが新たな本の表紙を開いていた、あの本も明日には暗野さんの小さな手におさまり、彼女だけの物のように撫ぜられる。柳くんの黒羽色の細い髪の一筋が、風にゆれた。たとえ欲しくなくても、誰かが渇望するものは、光をおびる。


チクリ、とめばえた胸の中の棘。
ゆっくりと指で触れれば、その棘の先は尖っていた。





「柳くん」

「なんだ?さん」

中庭に降りて近づくと、柳くんは静かにあたしに向き直った。

「何読んでるの?」

「これか、夏目漱石の「夢十夜」だ」

「ふーん、おもしろい?」

「一概にはなんとも言えないな、人をえらぶ作品だ」

「ねえ、その本.......次借りてもいい?」

「かまわないが.....」

「意外かな?急にこんなお願い」

「そうだな、さんと言葉を交わすのはこれが初めてだと思えば」



真意をはかるように、柳くんの切れ長の目があたしをみつめる。
ふと、この木漏れ日の下で、気がついたことがある。


「柳くんの瞳て..........光をうけても、夜みたいに真っ黒なんだね」


一瞬、眩しげに目をほそめて黙った柳くんは、きれいだった。

あたしは、きめた。




朝、出会った校門で。
お昼、たちよった中庭で。
夕方、通りすぎた部室前で。
だんだんと、あたしは柳くんとの会話をふやしていった。軽い冗談、なにげない日常のお話、それに答える淡々とした柳くんの所作。そうやって一緒にあたしの鞄の中には、柳くんが読み終えた本もふえていった。古い表現が羅列するその本たちの内容は、よくわからなかったけれど、柳くんは邪険にはせず、たまに簡単な解説もしてくれた。あたしは白い紙をめくる彼の繊細な指つきをすっかり気にいった。ときどき暗野さんがこちらを睨むようにしている事には気がついていたけれど、彼女は絶対にあたしたちが二人でいる時には近づいてこない。ページをめくる柳くんの端正な横顔をみつめ、そそくさと逃げるように立ち去る暗野さんの背中にむかって、あたしはつぶやく 「.......いい趣味してんじゃん、暗野さん」






ーマスカラもってない?あたしの終わっちゃった」

「はい、コレ」

「ありがとー、あっこれすんごいのびる!」

「ふふ」

「ねー最近さー柳くんと仲いいよね?」

「そうかな?」

「うん、なんか意外じゃない?何話してんの?」

「べつに?たいしたことないよ」

「うっそ、あんた本当は狙ってんでしょー?」

「まっさか」

「それよりさー最近暗野さんマジでやばくない?

「あー」

「いっつも一人でブツブツなんか言ってるし」

「席となりだったよね?」

「本当かんべんしてほしーよ、きもい通りこしてこえーよ」

「ごめんねー」

「なんでがあやまんの?」

「いや、なんとなく」

「マジ誰かなんとかし.......」

「あ」

「どしたの?」

「われてる」

「うそ?ファンデーション?」

「ううん」

「アイシャドー?」

「ううん」




「全部」




中身がぐちゃぐちゃに散乱したコスメポーチを手にして、あたしは考える。誰がやったかは明白だけれど、ここで飛びついて一発や二発、血をみせてもしようがない。けれど前にも言った通り、あたしはこの教室内のくだらない戦争で敗者になりたくはない。怒りをこらえて、ゴミ箱に化粧品の残骸をすてながら、ふと、ひらめく。そうだ、暗野さんは柳くんが好きなんだ..........それなら、それなら、あたしはもっともいい方法を知っている。






黄昏時の図書室に射し込む光は、うつくしかった。
すぅ、と触れた柳くんの肩は彫像の堅さで、それは告白するあたしの声をうわずらせた。


「柳くんが、好きだよ」


本心よりも多分に下心をふくんで、あたしは言った。暗野さんに対する意地悪な下心だ、今目の前に立つ男の子にはもうしわけないけれど、あたしは暗野さんの傷つく顔がみたくてたまらない。謝罪よりも何よりもそのゆがんだ顔がみたい、弱者は徹底的に虐げられなければならないのだ。数秒の沈黙、その後、やんわりと肩にかかるあたしの手をとって柳くんは答えた。ふりはらわれずにあたしの細い手は、そのまま彼の骨張った手の中におさまる、からみあった指さき、そのなんとも優しい感触は心中の後ろめたさをあおり、同時に安堵もさせた。


さん、一つ聞くが」

「なに?」


鋭い視線があたしを射る。


「俺が最後に貸した本のタイトルを覚えているか?」

「え?」


思いがけない問いに、声がつまる。
頭の何処をさがしても、一度も開いたことのない本のタイトルは出てこなかった。“柳くんに本を借りる”それはただ彼と話すための手段で、鞄の中に眠るあのうすっぺらい紙片の束は、いわば芝居の小道具だ。あたしは一度も役目をおえた小道具に注意をむけたことはない。


「ええと.......」


「残念だ」


ギリッ、とあたしの指の骨がしなった。
何が起こったのかわからず、声を出す前に手首をつかまれ、あたしは柳くんに図書室の壁においつめられた。すらりと背の高い彼の影があたしをぜんぶ覆い尽くす。手首にかかる圧迫感が痛みに変わるスレスレの所で、柳くんは力をゆるめている。まるで安いオモチャを前にしたお遊戯のよう。「やな....ぎくん.......?」おそるおそる見上げた彼の瞳は、あたしが初めて彼に話しかけた時と同じに真っ黒で、けれど、そこにはもうひとつの色が浮かんでいた、憐憫ー

白い顔が近づき、耳元でささやく。



「あまり........侮るな」



呆然とするあたしを一瞥して、柳くんはあっけなくつかんだ手首を離し、背をむけた。あまりにも突然の出来事にあたしは動悸をおさえられず、糸で縫い付けられたように、その場にたちつくした。

あなどるな.......?なに、それ。

柳くんが図書室を去る間際、精一杯、声がふるえないように聞いてみた。


「柳くんは.......あたしがキライ?」



何も答えずに、柳くんは扉をしめた。





どれぐらいの時間がたっただろうか。
沈痛な面持ちでなんとかしめられた扉をひらき、廊下にでる。あたしは、今、死にたくなるような羞恥心でいっぱいだ。どこにも行き場のない感情が頭を支配してぐるぐるといきかう。ひどい、いい人だと思っていたのに、柳くん、ひどい。だって、あたしは「柳」の下に自分の名前がならぶ図書カードを、心の中で嬉しく思っていたのに。そこまで考えて、今さらながらそんなちっぽけな事で、暗野さんに優越感を感じていた自分がはずかしくなる。

おぼつかない足取りで廊下を歩いていると、その終わりに一番みたくない顔をみつけた。

薄暗い廊下のはしっこ。
暗野さんは、うっすらと顔に笑みをうかべて、あたしをみていた。覗き見されてた?まさか、でも、立ち去った柳くんの素振りで、あたしの羞恥まじりのつたない告白の結末は知られたかもしれない。フラレて、なじられて、おいてけぼりにされた事。ああ、その笑顔が、とにかく気に食わない。


「.......何みてんの?」


ビクリ、と暗野さんは後ずさった。
けれどいやな笑みは顔にはりついたままだった。
ひどく、乱暴な気分だ。


「暗野さんは柳くんが好きで好きで好きで!しょーがないんだよね!?」


“柳くん”という単語、そこで暗野さんの顔がぐにゃりとゆがんた。
それはあたしがとてもみたかった脆さなのだけれど、今となってはどうでもいい。



「言っとくけど柳くん、暗野さんのこと.......大キライだよ?」


あたしのこともねー


心の中でそう吐き捨てて、さっきまでのあたしと同じく、人形のようにたちつくす暗野さんをその場においてけぼりして、あたしは去った。突然の泣き声が背後に聞こえたけれど、すべてをふりはらって、あたしは歩いた。










早咲きの桜が、やわらかい蕾をつけはじめる。
空をみあげる度に、ちがう風景が頭上にひろがってゆく。いつもなら、無色からだんだんとピンク色の葉へと変わる過程を、いとおしく思えていたのに、今は早く咲いて、そして散ればいいと切実に願う。満開に、狂い咲いて、はじけて、そしておしよせる桜色の花びらがすべてを流してしまえいい。
あたしは柳くんと話さない、柳くんもあたしと話さない。遠目にお互いをみつけても、ただ通りすぎあうだけ。図書カードの彼の名前の下には、もう誰の名前も続いてはいない。でも、これでいいのだ。あと数日もすれば、あたしはこの戦場から去ってゆく、みんなと一緒に。“卒業”という終戦日を全員でむかえるのだ。



ー写真とろうよ」

「うん」



黒い筒をそれぞれ手にして、誇らしげに笑っている。
そんな楽しげなクラスメイトばかりで、肩をよせあった。
「押すなよ」とか「早く入りなよ」とか声をかけあって、一枚のフレームの中に仲良さそうにおさまろうとする。この三年間の記憶が、まばたきする1秒のシャッター音に刻まれる。肩にくまれた手、頬をかする友達の髪、やわらかい呼吸。目の端で、輪からすこし外れた所にいる柳くんをみつけた。「はーい、こっち見てー」カメラを持つ級友の声にかまわずに、あたしは彼をみつめてしまう。テニス部のひとたちと共に桜色の下にたたずむ柳くん。どうしよう?声をかけようか?「一緒に入りなよ」って「写真とろうよ」って、たった一言だけ、それだけ、ああ、でも、たったその一言が、こんなに難しい。いつシャッターがおりてもおかしくない焦燥感の中、最後、すべての痛みをおしつぶして、柳くんの方にむかって、あたしは口をひらー




トンッ



体が、ゆらいだ。
よせあった肩がぶつかりあって、ゆれたと思ったけれど、ちがった。
あたしの体だけが突き飛ばされ、地面へと落下していた。

すべてが一瞬でスローモーションになり、衝撃の元をたどれば、銀色の光がお腹のあたりから生えていた。なんだろう、これ?なに、ささってるの?それが鋭利なナイフだと認識するまで、あたしは光る刃を無心にじっとみつめていた。
平常の時間が無意味となった落下する意識の中、背後からさっと人ごみにまぎれたひとつの顔を発見する、まばらに切りすぎた髪がかすめ、燃えるように頬を上気させて、彼女はみたこともないほど生き生きとしてそこにいた。「........なんだ暗野さん、そんな顔もできんじゃん」 あれほど疎ましく思っていたのに、あっさりとあたしは認めた。くそ、思いっきりさしやがって、ついでにひどく悪態もついた。

まわる視界、凍りつく群衆、その中で柳くんの姿だけがハッキリと鮮明に写しだされた。くずれおちるあたしに反射するように動こうとしている。柳くん、やっぱり、本当は優しいんじゃん。繊細な彼の手が視界をよぎって、さされた鈍痛よりもどれほどその手にもう一度触れたかったか、あたしは痛いほどに思いしった。でも、残念。たぶん柳くんの手がとどく前に、あたしの意識は途切れる。あおいだ空に無数の花びらが舞って、満開はまだずっと先なのに、狂ったように瞬く紅色しかあたしにはみえなかった、桜、きれいだなあ。闇はもうすぐそこ、瞼がうっすらと熱く、最後の最後であたしは自分が泣いていることに気がつく。いやだ、あっけないな、これで終わり?ここで負けて、そしてあたしは泣くのか....... ひらりと落ちた花びらが涙のような血に滲む、そうだ、でもだいじょうぶ、今日のマスカラはウォータープルーフだ。










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 痛い企画さま提出