ひとつ溜息をつき、草むらに蹴飛ばされたスニーカーをそろえようとして気がついた。「あ、サイズ大きくなってる........」 数ミリ、いや1センチわずかにのびた新品のアディダスは定位置をみつけたように、あたしのよそゆきの華奢なヒールの横に無骨におさまった。 しおれた黄緑色にのびる葉は素足でふみしめると、やわらかく足裏をくすぐる。藤でしつらえたバスケットで風に飛ばされないように布は敷かれ、おもちゃのような食器が整えられる、スプーン、フォーク、ナイフ、ちいさなマグカップ...........ならんだその列の最後の終わりに、黒髪の男の子がごろんと寝転がっている。赤也は指をなみうつ毛先につっこんであたしをみていた。ぎゅっ、と眩しげに細められた目、子犬みたいだ。


先輩ー何作ってくれたんすか?」

「サンドイッチ、サラダ、フライドチキンと」

「やりー!」

「それと..........」

「..........なんすか、それ?」

「ブルーベリータルト..............だったもの?」


籠の中で、2転、3転したのか、苺がのっていたつやつやとした手作りのブルーベリータルトは、哀れにも形をなさなくなっていた。困ったなあ、とこれ以上変にならないようになおそうとすると、横から手がのびて、クリームのはしっこを摘んだ、ぺろり。


「美味いじゃん?俺、先輩が作ったもんなら何でも食うし」





ピクニックに行こう、と言い出したのは赤也だった。なんか天気のいい日に、芝生で寝転がって、二人でのんびりしてーと。「それってピクニック?」と聞いたら「そう、それ!」と彼は目を輝かせた。
遠出をした山の上にある丘は、あたたかい日射しにつつまれ、ふわふわとした5月の陽気が頬をかする。隣で高校生になったばかりの赤也は、さっそくターキーのサンドイッチを食べている、うれしそう。そういえば、幸村や柳、その他のテニス部のみんなと同じ制服を身に纏い、校門をくぐりぬけた時も(さすかに中学の時みたいに登らなかったけれど)こんな風にうれしげな笑顔だった。やっと好きな先輩たちに届いた距離。一歳の差が、校舎も日常もすべてを離ればなれにするなんて誰が想像しただろう。パンをちぎる手のひらに残る傷や豆の痕が、それに支払った代価への勲章のようだ。 ようやくテニス部に、みんなの元に、そして、あたしの横に戻ってきてくれた赤也。


「おいしい?」

「うん」

「野菜もいっしょに食べなよ」

「うーす」

「天気いいねー」

「そうすっねー」

「そういえば、もうすぐ柳の誕生日だね」

「うっわ、そうだ」

「赤也どーするの?」

「俺、もうあげるもん決めてますよ?」

「なに?」

「肩たたき券」

「それ、真田の誕生日にあげて怒られたヤツじゃん?」

「あーくそっ、そうだった」


しぶしぶサラダの菜っ葉を口に運びながら、赤也は「あれ、冗談だったのになー」と悪びれる事なく、さらっと言う、けれど軽く叩かれた事を思い出したのか、無意識に手は右後頭部を泳いでいた。その様がなんだかかわいくて、小さく笑いかけると、思いがけず口元にもっていこうとした右手をひかれた。すらりと細まる大きな切れ長の目。


「撫でてよ、先輩」


にやっと、悪戯ぽく赤也は言う。少しだけ緊張した面持ちで、ゆっくり、ゆっくりと指を黒い毛先に滑らせると、赤也は頬をあたしの膝に寄せて、まぶしそうに空を見あげた。ちょうど大人と子供の境目のような顔。その一瞬の無垢さが切り取られ、ただ目の前にやすやすと横たわっている事に、あたしは痛々しい感動をおぼえる。とてもきれいなものと、はてしなく危険なものを、甘えさせているようなー


、先輩」


あたしの手首をつかむ赤也の腕が、わずかに震える。間をとり繕おうと、何かを言おうとしたけれど、だんだんと確実に赤みをおびる瞳にうつるあたし自身が、先に息を押し殺す。赤也はもう笑ってはいない。フォークを手放した片方の腕がやさしく首をつかみ、落下するようにひきよせられる。近づく赤、抵抗する間が、もうない。目をつぶる一瞬、目の端にブルーベリータルトの欠けた一角が見えた、なんで欠けてるんだろう?ああ、そうだ、とっくに赤也が食べてしまったんだ、あっけなく湾曲した、白い一角。






次の瞬間、切り裂くような音がすべてを壊した。


とっさに赤也は起き上がり、あたしはその隣で身をすくめた。頭上の木が不自然に大きく揺れ、葉が舞いおりる。数秒後、そう遠くはない場所に空から枝にぶつかりあい、そのまま失速しながら、何かが地に墜落する音が聞こえた。


「..............何?今の」

「..............」

「破裂したような、そんな感じの」

「..............銃声、でしたよね」


音がした方向を、じーっと見つめて赤也は黙る。
けれど、何か確信を得たように、立ち上がった。


「俺、見てきますよ」

「..............あたしも行くよ」

「危ないから先輩はここに残ってて下さい」

「それはちょっと..............嫌だ」

「なんで?」

「ひとりで残る方が危ない気がする」

「..............うーん.....それもそうすっね」

「一緒に行っていい?」

「わかりました、俺のそば離れないで下さいね」



手に手をとり、あたしと赤也は影の濃い森の中へと踏み入ってゆく。しん、とした静寂がふたりを背後から包みこむ。アディダスを足元にひっかけた赤也は、草むらに足をとられがちなあたしをかばいつつ、ゆっくりと歩く。その背についていくようにしながら、もうしわけないなと心中で思う。たぶん、もし、あたしが同級生の女の子なら、赤也はヒールの靴に文句のひとつも言っていただろう。幸村を筆頭に、赤也は好意をもった年上を崇拝する傾向がある、それも、盲目的に。一歳年上で、彼女である事で、赤也の逆鱗からは遠い場所に、あたしはいつもおかれる。甘えているのは、あたしかー


「ここら辺だったよね?」

「確か、その奥に..............」


赤也がバラバラにちらばる地面の葉を手で払いのけた。
折れた枝の上に“それ”は横たわっていた。


「..............鳥?」

「怪我してますね」


あたり一面に羽が飛び散っていた。たどたどしく翼を震わせ、青みをおびた鳥が血にそまって、落ちていた。

都会から離れた山の中。
一発の銃声。
撃たれた鳥。

合点がいった。




「ここ、狩猟場だったんだ」

「そうみたいっすね、けど..............」


膝をつき、ちらばった羽を一枚つまんで「こんなちっちぇー小鳥撃ってるようじゃ、合法がどうかわかんないすね」と赤也は皮肉げに口の端をあげた。撃たれた青い鳥は、いまだにゆっくりと羽を震わせている。


「ひどい..............」


思わず小さな体にかかる土埃をはらおうと、手で触れようとしたら「先輩、隠れて!」と低く赤也がささやき、横たわる鳥ごとあたしも抱えて、背後の木の影にあわただしく身をひそめた。急にどうしたのか、と聞こうとしたら口元に手をあてられ「しー..............」と黙るよう、いなされた。落ちる静寂、じっと眼前の空間を静かに睨む、赤也の瞳。

しばらくすると、遠くから数人の足音が聞こえた。こちらの方向だったはずだ、と誰かが声高に叫ぶ。息をひそめた葉の隙間から、頑丈そうな革のブーツを履いた足首がいくつも見える、手に光るのは、狩猟用の銃だろうか。撃ったのはこのひとたち..............?あたしの腕の中で、青い鳥は小さな心音を立てて、つらい呼吸をくり返していた。まだ暖かい体なのに確実に命が失われてゆくのが、触れた指先からつたわる。ぎゅっとくちびるを噛みしめる。お願い、あきらめて、早く、どっかに行って、痛いほどに心に願う。狩猟者たちは四方を見回し、ひとりがさらにむこう側の林を指差した。よかった、これであっちに行ってくれる。 瞬間、あたしがほっとしたのもつかの間、隣で赤也がチッ、と舌打ちをした。


「..............マズいな」

「え?」


狩猟者たちの足元をぐるりと一回転し、はっはっと規則的なリズムで荒い息を発しながら、何かがこちらに駆けてきた。丸い鼻、のびた耳、隙のない眼光。


「犬っ.........」

「くっそ..............」


黒い大きな狩猟犬が、何度か鳥が落ちていた場所を嗅ぎ、そのままあたしたちの足跡をたどるように、隠れている木の元まで走ってきた。 鼻をならし、いぶかしげに周辺をうろうろし始める。影にいるあたしたちは見えないけれど、そう遠くはない場所に犬は近づいている。息づかいまで聞こえるようだ。視線を落とせば、鳥の血だろうか、わずか数適の赤が、隠しきれずに点々と足元に落ちている、しまった。くん、と鼻をならして、確信をえたように犬は空高く吠えようとした。


先輩、絶対出てこないで下さいね」

「え?あっ..............赤也!」


あたしの肩を軽く叩き、さっと赤也が木の影から姿をあらわした。むこう側の林へと、背をむけている狩猟者たちからは見えないけれど、突然あらわれた赤也に、犬はおどろき、低い姿勢で獰猛そうな唸り声をあげる。


「よう、子犬ちゃん」


一瞬で、赤也の瞳が燃えあがった。

木の影からでも、赤也の全身をピリピリとした気迫が包んでいるのがわかる。 コート上でみせる、凍りついて動けなくなるような、慄然とする“殺意”。 それをたやすく眼前に閃かせながら、にやりと口角をあげて赤也はたのしそうに、ちょっと笑った。一歩、地を踏みしめるアディダス、気圧されるように犬も一歩後ずさった。


「そうだ..............それでいい」


低く、手懐けるように、ゆっくり赤也がささやく。
赤い瞳は、ずっと犬を睨んだまま。
尾がだんだんと下がり、未知への恐怖が完璧に獣の丸い両目を捕らえた。


「いけっ..............!」


くぅん、と弱々しい泣き声をあげて、犬は狩猟者たちの元へと逃げ去ってゆく。
そのまま遠くの林へと歩いていく人間たちの足元に、甘えるようにまとわりついた。


「なんだ、ケッコーいい子じゃん」


軽く肩をすくめて赤也は隣にもどってきた、さっきまでの殺意なんて嘘だったみたいに飄々然として。
あたしの腕の中の青い鳥をながめて「どうします?」と聞く。


「もうあまり動かないの、早く傷の手当をしないと..............それと水とか」


赤也は、少し息をつめた。
あたしの顔を見ずに、じっと視線を鳥にむけて言った。


「たぶん、そいつ助からないっすよ」


率直な物言いに、あたしはもう一度青い鳥の体を見つめる。
だいぶ流れた血は、羽からつたわり、あたしの手をも汚していた。


「でも..............」

「苦しむ前に」


隣に膝をつき、爪についた血を赤也が指でぬぐった。



「ここで殺してやった方がいい」



なぜ、そんな事を。
ぞっとする心地で、息をのんだ。
けれど、あたしは冷たくなる心のどこかで、赤也が正しい事をわかっていた。青い羽に滲む多過ぎる血痕からも、もうわずかにしか胸を上気させない小さな体からも。この子は助からない。残酷な事だけれど、残酷な事ほどあっけなくいつも真実に近い。じんわりと、涙が出た。なぜか赤也がそんな真実にもうひとりでたどりつける事にあたしは悲しくなった。“殺してやった方がいい”ふっと思う、たぶん、幸村も同じ事を言うだろう。一センチのびたアディダス、高くなった背、年下の少年だった赤也ー


「..............っ」

「泣かないでよ、先輩」




「俺............一番どうしていいかわかんなくなるよ」


やさしく赤也があたしの髪をなでる、涙が一粒こぼれる度に何度も、何度も。
ふたりの腕の中で、最後におおきく翼を一回羽ばたかせてから、静かに青い鳥はこときれた。












先輩ー、花これでいいすっか?」

「ありがとう赤也、きれいだね、その色」


穴を掘り、赤也がとってきた淡いピンク色の花を添えて、青い鳥を葬った。紺碧の羽に明るい花をのせたら、まるで生きているような鮮やかな色彩になった、いつかは大空を自由に、きれいな風景の中を飛んでいたんだと、ふっと想いをはせた。最後に土をかぶせると、深い森の緑に同化し、小さなお墓はみわけがつかなくなった。


「戻りましょうか、先輩」

「うん」

「手」

「ん」

「ごめんね、繋いどいてなんだけど、俺すんげー手汚れてる」

「あたしもだよ、赤也」

「先輩はいーの」

「だめだよ」



土にまみれた手を、ぎゅっと握りしめた。



「赤也」

「なんすか?」

「今度はもっと歩きやすい靴、履いてくるよ」

「なんで?俺べつに気にしてねーすよ?」

「いいの」

「だから先輩はいいんだってば」

「.......どうしても、だよ」



ようやく暗い森をぬけると、見慣れた藤のバスケットと、草原にしかれた可愛らしい布がまっていた、その向こうにひろがる平和そうな山々。



「柳の誕生日さ、すてきなものをあげようよ」

「そうすっね、何がいいかなー?」

「あせらなくてもいいよ、考えよ」

「うん」

「一緒にふたりで、考えよう」




目をつぶり、頬をよせた赤也の首筋は温かかった、その鼓動を感じながら、10年後のあたしたちはどうしているのだろう、と思った。その時、やっぱり赤也は“殺してやった方がいい”と言うのだろうか、あいかわらずあたしは“かわいそう”と涙を数粒流すのだろうか。それとも、立場がまったく逆になるのかもしれない、そうしてそれすらも大人のあたし達はなんとなく忘れてしまうのかもしれない。赤也が撫でてくれた額が熱い、ほおっておかれた皿の上のデザートのクリームが溶けている、やわらかく紫よりも赤に近い色、ブルーベリータルトと死とピクニック。完璧をもとめるようにバイバイ、とちっちゃくとなえた。











100905 6ft=土葬で埋葬される深さ。